大谷大学 文化環境ゼミ3回生 2019年度後期

 有田みかんのおいしさの秘密


 今回は前回に続き新堂地区と千田地区、2つの場所で露頭を探し、その後農家さんに協力してもらい、みかんに含まれる鉄とマグネシウムを調査したいと思います。

 

 令和元年9月9日私たちは新堂地区に行きました。車で山道を通っていると緑色岩・緑色片岩を見つけることができました。

 

f:id:suzuki_seminar:20200114132646j:plain f:id:suzuki_seminar:20200114133122j:plain

 緑色片岩

 

 その後みかん博物館の方に話を伺う機会をいただいたので、博物館内のみかんの歴史や文化について、また有田市のみかん農家さんの事情など現地に住んでいるからわかることなど、教えてもらいました。

 

 9月10日にはみかん博物館の方に教えてもらった、みかん海道や高田での調査を行いこれらのものが見つかりました。

 

f:id:suzuki_seminar:20200114141220j:plainf:id:suzuki_seminar:20200114141323j:plain

 みかん海道のチャート

 

 この後高田のみかん畑に行き、赤色チャートの石が多く使われている石垣を発見しました。

 

 f:id:suzuki_seminar:20200114133819j:plain

石垣に使われている赤色チャート

 

 9月11日には高田のみかん畑石垣で見た赤色チャートの露頭を探しました。その結果中腹のミカン畑で赤色チャートの露頭を見つけられました。赤色の由来は酸化鉄だということが分かっています。その結果みかんのおいしさには鉄分が関係しているのではないかとの考えがより強くなりました。

 

 f:id:suzuki_seminar:20200114134813j:plain

 赤色チャートの露頭

 

 次に11月30日と12月1日にはみかん農家さんに協力してもらい、みかんの収穫体験をさせてもらいました。

 

f:id:suzuki_seminar:20200114135302j:plain

 協力してもらったみかん農家さんのみかん畑

 

 まとめとしてはそれぞれ違う種類の岩石が見つかりました。またみかん農家さんのボランティアを経験することでどれだけ手間暇をかけてみかんを育てているのかを実感することができました。今後は別の場所に調査しに行き、多くのデータを集めたいと思います。

 

 

 

大谷大学 文化環境ゼミ 2回生 2018年度後期

 姫路城の石垣調査

 

f:id:suzuki_seminar:20190107105305j:plain

平成30年11月28日に姫路城を訪れ、石垣の調査を行いました。

今回の調査目的は国宝である姫路城の石垣を調べることで、どのような種類の石垣が使われているのかや、積み方、その石材がどこから来たのかを調べることです。

今回は京都駅から乗り換え無しで姫路城のある姫路まで行きました。

 

姫路城の歴史は、1333年〈元弘3年〉赤松則村が姫山に基礎となる砦を築き、1346年〈正平元年〉赤松貞範が本格的に城を築きました。その後山名持豊赤松政則黒田重隆へと城主が変わっていきました。そして大河ドラマで有名になった黒田官兵衛は1546年〈天分15年〉に姫路城で生まれました。その後豊臣秀吉の毛利勢討伐に向けての拠点になり、大坂城が築城されると弟の羽柴秀長が姫路城主になりました。その後木下家定、1600年〈慶長5年〉関ヶ原の戦の後には池田輝政が城主となりました。1618年〈元和4年〉には本田忠正が西の丸を築き、今の姫路城の形が完成しました。それからは改修工事が、明治、昭和、平成と続き、平成の改修工事が終わった2015年に、今の白い姫路城へとなりました。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217111944j:plain

私たちは姫路駅に11時半ごろにつき、先に商店街で昼食をとる事にしました。

 

f:id:suzuki_seminar:20190107105305j:plain

駅から数百メートルほど歩くと姫路城が見えてきます。

 

 f:id:suzuki_seminar:20190107105550j:plain

大手門から中に入るとまずは切り込みはぎを見にいきました。この積み方では、加工された石材が用いられています。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217112550j:plain

その後菱の門東方にある野づら積みでできた石垣を見に行きました。 この写真に見られるように大小様々な石が積み上げられているのが特徴になっており、瓦まで混じっていました。

 

そして受付を抜け、いの門、はの門へと行き、星型のマークが化粧櫓のあたりにあるという事前情報から見に行きますが、残念ながら見つかりませんでした。

 

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217113239j:plain

次に姥ヶ石を見に行きました。建設時、石材が十分に集まらない時に、一人の老婆が石臼を持ってきたことで有名な石です。網の中にある白い石が姥ヶ石です。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217120343j:plain

f:id:suzuki_seminar:20181217114131j:plain

そして天守閣を登り、本丸に降りて、天守閣に使われる打ち込みはぎを見に行きました。ある程度同じような大きさの石が積まれていることが特徴的です。

 

f:id:suzuki_seminar:20181217114426j:plain

備前門にある石棺を見に行きました。中央にある四角に加工されている石です。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217115124j:plain

上の写真が掘り出された石棺です。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217114654j:plain

その道中では四角のマークがある石がありました。昔の城の築城に携わった人が、携わったことを示すために石にマークを彫ったそうです。

 

 f:id:suzuki_seminar:20190122145431j:plain

次は二の丸にあるお菊井戸へと行きました。

 

 f:id:suzuki_seminar:20181217115350j:plain

最後に明治、昭和、平成のしゃちほこを見るなどをした後はお土産屋で、休憩しました。

 

その後JR姫路駅に戻り、解散という流れになりました。

石材の種類は凝灰岩が多く使われていて、積み方としては 大手門から中に入ると左側に切り込みはぎ、菱の門東方の石垣に野づら積みがあり、そして天守閣に使われる打ち込みはぎがありました。

石材の産地は、西は夢前川付近から、東は市川付近など姫山から数kmの範囲内から供給されていることがわかりました。

 

まとめ

 今回姫路城を調査して、石垣には様々な積み方があることを知ることができ、それらが時代ごとに最適化され、見た目にこだわっているなど、お城が時代ごとに変わっていく姿を学ぶいい機会になりました。

 

 

 

大谷大学 国際文化学科文化環境3回生 2019年度前期

有田ミカンのおいしさの秘密

 

f:id:suzuki_seminar:20190611132157j:plain

私たち文化環境ゼミ3回生は和歌山県の名産品である有田蜜柑を調べるために、2019年6月2日に和歌山県有田市へ行ってきました。10時21分に和歌山県箕島駅に着いた私たちは、早速有田郷土みかん資料館に行き、有田蜜柑とはどのようなものなのか調べてきました。有田蜜柑の成り立ちははっきりとはわかっておらず、今の所3つの説があります。

 

 1つ目は糸我という場所に元々蜜柑の木が自然に生えていた説です。この説は糸我稲荷神社に伝わる本に、約580年前に蜜柑の木が自然に生えていたと記されていました。糸我荘の神田池(宮田池)という場所に、あった樹の実が、蜜のような味であったことから「密柑」と呼ばれ、近くの山の畑へと移され、広まった説です。

   2つ目は伊藤孫右衛門が持ってきたという説です。この説は伊藤孫右衛門という人物が今から約440年以上も前に、九州から蜜柑の苗木を2つ持ってきて、大きく育てると苗木を増やしていき、今のような蜜柑の産地になった説です。

 3つ目は紀州徳川家初代・徳川頼宣こと南龍公が、蜜柑づくりを勧めて作らせた説です。今から約400年前に南龍公が和歌山県に住み始めたころに有田郡へと訪れた時、有田郡の人々が山が多く、平地が少ないために貧しい生活をしていました。そこで南龍公は、熊本県八代から小蜜柑の木を取り寄せ、領地で育て、大きく成長させるとその木を有田に移し、育てることを勧めたことで広まっていった説です。

どの説が正しいにしろ、古い時代からこの町で大切に育てられてきたことがわかります。

また、有田の蜜柑には2種類あるとされ、紀州蜜柑と温州蜜柑と言われています。紀州蜜柑は小ぶりで、酸味が少なく、香りがいいですが、種が多いという特徴を持っており、温州蜜柑は大ぶりで、種がないことが特徴といわれています。これら2つの蜜柑が関係があることまでは調べられませんでしたが、1813年に温州蜜柑の栽培が始まるということが「紀州柑橘論」に書かれていることから、その前から育てられていた紀州蜜柑の品種改良によって、温州蜜柑ができたのかもしれません。

 

有田蜜柑が広く知られるようになった要因は、1632年に滝川原村の藤兵衛という人物が初めて江戸に四百籠の蜜柑を送ったことからです。今まで出荷していた堺や大坂を含め、江戸へも出荷されるようになり、広く知られるようになったそうです。また紀伊国屋文左衛門という人物が嵐の中、江戸へ蜜柑を船で送ったことなども有名な話としてあります。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611132327j:plain

積み込み場所のジオラマです。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611132446j:plain

江戸初期に使われていたとされる蜜柑を運ぶ船です。

 

その後、私たちは有田市語り部の方にお話を伺い、地元で蜜柑がおいしいと有名である新堂のほうに実際の蜜柑畑で土の成分を知るべく、向かいました。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611132550j:plain

駅前の定食屋さんでお昼ご飯を食べました。

ご飯のあとは駅伝いに新堂に歩いて移動しました。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611132917j:plain

 奥に見えるミカン畑が今回調査する場所になります。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611133056j:plain

まず私たちがミカン畑に登っている途中に目に入ったのがこのモノレールです。正式名称はわかりませんでしたが、山のいたるところありました。なぜかというとその場にいるとわかるのですが、とても坂が急で、ある場所の傾斜になると15度にもなりました。そのため、上の方から蜜柑を持って降りてくるのが大変なためにこのモノレールに乗せて、トラックが止めてある場所までおろしてきます。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611134335j:plain

現地の農家さんに聞いたことですが、石垣による排水の良さと海からくる潮風が蜜柑をおいしくしてくれることから、山に蜜柑畑を作ったそうです。しかし海に近すぎる場所にはあまり蜜柑畑が目立つほどなかったので、近すぎても駄目なのかもしれません。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611135115j:plain

 蜜柑の木には小さな実がなっていました。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611135253j:plain 

石垣です。変輝緑岩と砂岩が多く見られました。地質図でこの場所は変輝緑岩が分布しているとされているので、砂岩はほかの場所から運ばれてきたものと予想できます。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611141644j:plain

石垣の中に少しだけみられたシャープペンシルの上にある黒っぽい石は、苦鉄質鉱物を多く含む岩石です。このあたりが地質図によると変輝緑岩が分布しているので、この石はこの場所の石である可能性があります。

 

f:id:suzuki_seminar:20190611142024j:plain

石の性質を調べるために沢の中で露頭を見つけました。動かされたような形跡もなく現地の露頭であるとわかります。結果は緑色岩であることから、このあたりの土壌は鉄やマグネシウムなどを多く含んでいることがわかりました。このことから、蜜柑のおいしさは土壌の鉄分と深く関係しているのではないかという考えに至ります。

後期では別の蜜柑畑を調べ、その場所も似たようなものか調べたり、蜜柑の収穫などを体験したいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大谷大学 文化環境ゼミ 3回生 2018年度後期

 

 

 

京都市の石橋 

 私たち3回生は10月23日と27日の2日間に分けて、前期の続きで京都の石橋を調査しました。1日目は、万世橋と加茂大橋に行きました。2日目は、巽橋と古川町橋、三条大橋、蹴上インクライン橋梁、南禅寺水路閣に行ってきました。

 

万世橋 北白川校前バス停から徒歩5分

 f:id:suzuki_seminar:20181106134141p:plain

 万世橋は白川にかかる石橋です。北白川天神宮の入り口にあります。橋の長さ7m、幅員3m。橋に使われていた岩石は花崗岩で、カリ長石や斜長石、黒雲母が含まれていました。

 

f:id:suzuki_seminar:20181106134229p:plain

 そして階段の端には、幅3~4cmの石英脈と大きな暗色包有物も見られました。

 

f:id:suzuki_seminar:20181106134341p:plain

 万世橋は今まで見てきたアーチ橋とは違い、アーチ部分が楕円形になっていました。

 

加茂大橋 出町柳駅前バス停から徒歩2分

f:id:suzuki_seminar:20181106140341p:plain

 加茂大橋は鴨川にかかる鋼桁橋です。加茂大橋は、交通量も多く大きな橋で長さや幅員を測ることはできませんでした。調べたところによると、橋の長さ141.4m、幅員22m。(参考:京都風光 加茂大橋)

 

f:id:suzuki_seminar:20181106140513p:plain

 加茂大橋は、欄干部分が古い花崗岩と修復のための新しい花崗岩が使われていました。古い花崗岩は暗色包有物がまったく見られませんでした。そして目が粗く、触るとつるつるしていました。一方で、新しい花崗岩は暗色包有物が含まれており、触るとザラザラと削れるようでした。この事から、古い花崗岩と新しい花崗岩は、産地が違う可能性が出てきました。

 

f:id:suzuki_seminar:20181106140646p:plain

 基礎はコンクリートと鋼でできており、鋼は半アーチになっていました。欄干部分のみ、石で造られていました。

 

大和橋 地下鉄四条駅から徒歩28分f:id:suzuki_seminar:20181120133104p:plain

 大和橋は白川にかかる石橋です。今回調査している中で見つけた橋です。なので大和橋も調査しました。橋の長さ6.5m、幅員7m。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120142713j:plain

 この橋は、明治45年にかけ替えられました。橋の花崗岩は、江戸時代に造られたと思われる部分と明治時代に造られたと思われる部分がありました。石柱と石桁、そして上流側の欄干は江戸時代と思われるものでした。江戸時代に造られたと思われる部分は、極粗粒花崗岩でした。下流側欄干と上流側欄干柱は明治時代に造られたと思われるもので、江戸時代の方より少し目の細かい粗粒花崗岩でした。石畳は平成15年3月に修復されており、中粒花崗岩でした。

 

巽橋 地下鉄四条駅から徒歩30分

f:id:suzuki_seminar:20181120142611j:plain

 巽橋は、白川にかかる石橋です。橋の長さ7.2m、幅員2.7m。巽橋は、欄干が木でできています。ちなみに、巽橋は京都ならではの木の古民家が立ち並ぶ中に橋があり、京都の風情が楽しめます。私たちが調査をおこなった日も、多くの観光客が見られました。その為、欄干に座って写真を撮る観光客が多く、欄干の木の部分が痛んでしまい問題になっています。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120133305p:plain

 巽橋は、コンクリートの上に石畳が敷き詰められるようになっています。石畳が白色と赤褐色を帯びる粗粒花崗岩と淡青色の中粒花崗岩でできていました。中粒花崗岩には、暗色包有物が見られました。石畳の粗粒花崗岩と中粒花崗岩が、モザイク状デザインのように3つ以上続けて並ばないように敷き詰められていました。

 

古川町橋 大和橋から徒歩10分

f:id:suzuki_seminar:20181120133717p:plain

 古川町橋は、白川にかかる石橋です。別名、行者橋や一本橋とも呼ばれています。橋の長さ11m、幅員66cm。この橋はいつ架けられた橋か明らかになっていません。しかし、江戸時代の粟田祭で使われていたと言われています。なので、江戸時代には存在していた事になります。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120142810j:plain

 橋は一部コンクリートで補修されていましたが、基本的には極粗粒花崗岩でできていました。暗色包有物がまったく見られませんでした。

 

三条大橋 古川町橋から徒歩14分f:id:suzuki_seminar:20181120133747p:plain

 三条大橋は、鴨川にかかる鋼単純H型橋です。加茂大橋と同様に橋が大きく、交通量も多いため実際に橋の長さや、幅員を測ることはできませんでした。しかし橋の近くに看板があり、そこに橋の長さと幅員が書かれていました。橋の長さ74m、幅員15.5m。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120134101p:plain

 三条大橋が架けられた年代については明らかになっていません。室町時代前期には、すでに簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたと推測されています。本格的な橋となったのは1590(天正18)年。欄干部分は木でできていました。橋を支える柱は、南側は一部コンクリートの柱の基礎の上に直径約60cmの石の柱があり、北側の柱はすべてコンクリートの柱で支えられていました。

 

 〇 蹴上インクライン橋梁 蹴上バス停から徒歩5分f:id:suzuki_seminar:20181120134356p:plain

 橋の長さ9.1m、幅員18.4m。正式名所は蹴上隧道。愛称は、ねじりまんぽと呼ばれています。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120134422p:plain

 このねじりまんぽに使われている花崗岩は典型的な花崗岩ではなく、カリ長石が大きい斑状組織でした。そしてそろばん玉の形をした高温型石英が見られました。

 

南禅寺水路閣 蹴上インクライン橋梁から徒歩15分

f:id:suzuki_seminar:20181120142006p:plain

 南禅寺水路閣は、琵琶湖の湖水を京都の街へと運ぶための水路橋として作られ、京都の産業発展に大きな役割を果たしました。

 

f:id:suzuki_seminar:20181120142856j:plain

 レンガの柱の下に、花崗岩の土台がありました。土台の花崗岩には、粗粒花崗岩が使われており、大きな暗色包有物も見られました。

 

 今回私たち3回生は、前期と合わせて13個の石橋を訪れて調査をしました。前期に石橋を調べた結果、すべての石橋の素材が花崗岩であることがわかりました。そのことを踏まえて後期には、どこの花崗岩かということに焦点をあてて調べました。

 石材調査として、狸谷山不動院近くの瓜生山へ行きました。瓜生山には花崗岩の砕けた真砂がところどころに見られました。山頂に近づくにつれて真砂化が進んでいました。瓜生山は花崗岩地帯で上質な湧き水が多く出ています。

 

f:id:suzuki_seminar:20190122135041j:plain

 清沢口の石切り場は、風化がとても激しく、少し握ると砕けてしまうほどでした。

 

f:id:suzuki_seminar:20190122133016j:plain

 暗色放有物を含まない極粗粒花崗岩が見られました。これは、三条大橋の石柱部分と古川町橋などに使用されている花崗岩の特徴と類似していました。よって、瓜生山の花崗岩が使用されている可能性が高いと結論付けました。

 

 私たちの大学がある京都には、複数の文化的庭園があり、たくさんの石材が使用されています。そこから身近にある石についてというテーマで考えた結果、石橋に決めました。石橋が多く存在する九州地方は、石材に凝灰岩を使用しているのに対して、京都にある13箇所の石橋では、ほぼ花崗岩が使用されていました。石材は花崗岩でしたが、特徴は全部同じではなく、粒度が違ったり、色調が違ったりすることが分かりました 。それまでは石はすべて同じものに見えていましたが、1年間の調査をしたことによって花崗岩の特徴を知ることができました。

 

大谷大学 文化環境ゼミ 2回生 2018年度前期

 



福井県立恐竜博物館に行ってみた 

f:id:suzuki_seminar:20190409135258j:plain

平成30年5月27日に福井県勝山市福井県立恐竜博物館に訪れ、化石発掘体験をしてきました。今回の調査目的は野外発掘調査を通して恐竜を身近に感じることです。

 f:id:suzuki_seminar:20190416132349j:plain

 今回は福井駅の近くからでている越前鉄道をつかい、福井県立恐竜博物館のもより駅である勝山駅までいきました。

 

福井県立恐竜博物館は、恐竜やそのほかの化石に関する資料などを展示した国内最大の博物館です。福井県で発掘され、福井の地名から名前がついたフクイラプトル、フクイサウルス、フクイティタン、コシサウルス、フクイベナートルなど福井特有の恐竜の化石などが展示されてます。

 

 福井駅勝山駅には至る所に恐竜がいました。

 f:id:suzuki_seminar:20190416133625j:plain

 

私たちは午前10時頃に現地に到着しました。

建物は展示を見やすくするために柱をなくしたのと山が近く雪がよく降り積もるので自然に雪が落ちるように卵形に設計されました。柱がないため、室内は広く感じられました。 

f:id:suzuki_seminar:20190416134225j:plain

 

私たちは午後に発掘体験を予定していたので先に昼食をとることにしました。 

f:id:suzuki_seminar:20190409135417j:plain

化石発掘オムライスの中からは…何か見つかるかもしれないですね。

もちろん福井県ご当地グルメソースカツ丼やそばも食べられます。 

 

お昼ご飯を食べ終え、発掘調査はバスに乗り博物館近くの手取層群北谷層にある発掘現場に行きました。

f:id:suzuki_seminar:20190409135534j:plain

 

行きの道には恐竜の標識もありましたよ。

f:id:suzuki_seminar:20190409135457j:plain



発掘調査の結果、植物の葉っぱの化石が見つかりました。

だいたい1㎝ないぐらいの大きさです。

f:id:suzuki_seminar:20180709115233j:plain

 

 

手取層群北谷層は1億2000万年前の地層で、そこから5種類の恐竜の化石やその他水辺の化石なども見つかっています。その近くあった展示場には採掘された足跡の化石や発掘のために使われた道具など、本館では見られないものが展示されていたので、発掘体験を実際にしてもらうのも楽しいと思います。

 発掘調査を終えて、博物館まで戻ってきました。

 

次は博物館を調査します。

いろいろな恐竜の標本が展示されていたので、福井の恐竜たち5体の標本を紹介します。

まず始めに紹介するのは、植物食恐竜のコシサウルス〈コシサウルス・カツヤマ〉です。鳥脚亜目のコシサウルスは、発見された化石は幼体で、あとで出てくるフクイサウルスとはことなるイグアノドン類として命名されたそうです。 

f:id:suzuki_seminar:20190409134903j:plain

 

 次に紹介するのは、先ほど少し名前がでてきたフクイサウルスフクイサウルス・テトリエンシス>です。フクイサウルスは鳥脚亜目で全長5メートルのイグアノドン類として、日本で初めて全身骨格が復元された植物食恐竜です。

 f:id:suzuki_seminar:20190416135111j:plain

フクイティタン<フクイティタン・ニッポネンシス>。

全長が10メートルもある植物食恐竜で、日本で初めて学名がつけられた竜脚亜目です。 

f:id:suzuki_seminar:20190416140324j:plain

 

肉食恐竜のフクイベナートル<フクイベナートル・パラドクサス>。全長が2.4メートルの小型の獣脚亜目で羽毛があり、雑食であったと考えられています。

f:id:suzuki_seminar:20190409134341j:plain

 

そのあとに紹介するのが、フクイラプトル<フクイラプトル・キタダニエンシス>。

日本で初めて学名がつけられた肉食恐竜の獣脚亜目で、全長が4.2メートルと考えられています。

f:id:suzuki_seminar:20190409133843j:plain




このような恐竜の他にも福井県産のワニや亀の化石なども紹介されていましたので、ぜひ福井県の恐竜ブースも博物館に行く機会があれば、ごらんください。

 

 これで福井県立恐竜博物館を後にします。

 

 

まとめ

目的を持って博物館内の見学や、発掘体験をすることによって、恐竜を身直に感じることができました。

博物館内では等身大の標本などを見ることによって、恐竜が生きていた時代に、今自分自身がいるような感覚を味わうことができました。

発掘体験では実際に体験することがきました。どのような行程から化石を掘り出して、博物館に展示されているのかを学び、あらためて展示するまでにどれだけの時間と労力がはらわれているのかを実感しました。

 

大谷大学 文化環境ゼミ 3回生 2018年度前期

京都市の5つの石橋

 私たち3回生は、京都市にある5つの石橋を5月29日と6月16日の2日間に分けて調べました。1日目は、堀川第一橋と堀川第二橋に行きました。2日目は、伏水街道第四橋と伏水街道第三橋と円通橋に行きました。

 

〇 堀川第一橋(中立売橋)堀川今出川バス停から徒歩10分

f:id:suzuki_seminar:20180626133520j:plain 

 

堀川第一橋は、堀川にかかる石橋です。元々は木で造られた橋でしたが、1873(明治6)年に石橋になりました。2012年に土木学会によって、選奨土木遺産に認定されました。そして、2017(平成29)年3月31日京都市指定有形文化財に登録されました。堀川第一橋は、近代橋梁史上価値が高い橋と言われています。

f:id:suzuki_seminar:20180626133540j:plain

 

橋の長さは約14m、幅は約8.2m。使われている岩石は花崗岩でした。花崗岩には、石英、斜長石、カリ長石、黒雲母の鉱物と暗色包有物が含まれていました。

f:id:suzuki_seminar:20180626133952j:plain

 

〇 堀川第二橋(下立売堀川第一橋から徒歩10分

f:id:suzuki_seminar:20180626141759j:plain

 

堀川第二橋は、堀川にかかる石橋です。現在の下立売橋の内部に石橋があります。橋の幅を広げるために、石橋の両サイドに桁橋が造られました。

f:id:suzuki_seminar:20180626140632j:plain

 

橋の長さは約9m、幅は約7.5m。使われている岩石は花崗岩でした。

f:id:suzuki_seminar:20180626140731j:plain

 

 

 

〇 伏水街道第四橋 竹田出橋バス停から徒歩20分

f:id:suzuki_seminar:20180703134014j:plain

 

伏水街道第四橋は、七瀬川にかかる石橋です。橋自体はコンクリートでできており、コンクリートの橋の下に石のアーチ橋がありました。

 

橋の長さは約6.8m、幅は約6m。アーチの直径は3m。使われている岩石は花崗岩でした。しかし、前の二つの石橋とは違い、暗色包有物は確認できませんでした。そして石垣の一部には、石英斑岩が使われていました。

f:id:suzuki_seminar:20180626135837j:plain

 

〇 伏水街道第三橋 鳥羽街道駅から徒歩10分

f:id:suzuki_seminar:20180626141935j:plain

 

伏水街道第三橋は、三ノ橋川にかかる石橋です。住宅が並ぶ中に橋があり、交通量が多い橋でした。アーチの上に石垣がありました。川の底が石畳になっていました。

f:id:suzuki_seminar:20180626141405j:plain

 

橋の長さは約5.6m、幅は約7.2m。アーチの直径は3m。使われている岩石は花崗岩でした。稀に暗色包有物も含まれていました。

f:id:suzuki_seminar:20180626141524j:plain

 

円通橋 東山五条バス停から徒歩5分

f:id:suzuki_seminar:20180626134628j:plain

 

円通橋は、皓月池にかかる石橋です。大谷本廟に参拝する際に必ず通ります。橋脚のふたつのアーチが皓月池に反射して、眼鏡のようにみえることから、「めがね橋」とも呼ばれています。

f:id:suzuki_seminar:20180626134821j:plain

 

橋の長さは約28.9m、幅は約6m。メガネの直径は3.8m。使われている岩石は花崗岩でした。橋本体に使われている花崗岩には、大きな暗色包有物がありました。そして欄干に使われている花崗岩には、鉄を含んだピンクのカリ長石が含まれていました。

f:id:suzuki_seminar:20180626134936j:plain

 
 
 
 5つの橋を調べていくと、すべて石橋に使われている岩石が花崗岩だということを知りました。どうして花崗岩なのか、この花崗岩はどこから採られたものなのか。疑問が浮かんできました。次は、疑問も含めて調べていけたらと思っています。

 

大谷大学 文化環境ゼミ 3回生 2017年度後期

太郎坊宮をたずねて

 

f:id:suzuki_seminar:20171205135048j:plain

 

平成29年11月19日に滋賀県近江八幡市の太郎坊宮を訪れ、背後の山々にも登りました。

今回の調査目的は、太郎坊宮(阿賀神社)と天狗の歴史の調査、夫婦岩と赤神山、箕作山の地質調査でした。

 

f:id:suzuki_seminar:20171205135139j:plain

 

太郎坊宮について簡単に紹介します。太郎坊宮は「勝運の神」という御祭神がいます。勝運を上げるためにここに訪れる方が多いです。さらに神事が盛んで、特にお火焚大祭は有名でたくさんの人が集まります。太郎坊宮は神社の他に、夫婦岩、赤神山、箕作山があります。山登りを目的とした人も来ます。太郎坊宮の見所はまだたくさんあります。

 

私たちは10時に太郎坊宮の入り口に着きました。

 

入り口には御神田があり、その名の通り、神様の田んぼらしいです。神様の田んぼなので立ち入り禁止でした。↓

f:id:suzuki_seminar:20171205135219j:plain

 

赤神山参道の麓にある風化が見られる赤神山の石を使った灯籠

花崗岩がところどころに使われています。

f:id:suzuki_seminar:20180109094612j:plain

 

 

f:id:suzuki_seminar:20180115003139p:plain

灯籠が見えるこの位置が赤神山全体を綺麗に臨める場所なのではないかと思いました。

 

f:id:suzuki_seminar:20171205135414j:plain

入り口から階段があり、少し上がっていくと小さなお寺がありました。

 

成願寺というお寺です。ここには誰もいなくて、鐘がありました。↓

f:id:suzuki_seminar:20171205140116j:plain

 

さらに階段を上がって行くと、参集殿という場所に着きました。参集殿は赤神山の中腹にあり、湖東平野を見渡すことができます。神殿造りの粋を集めた全国でも有数の建物です。

 

参集殿に天狗の置物があり、「神威玉」を持っていました。正面のお殿に参拝して、それから玉を両手で触り、その手で心と病がある人は悪いところを撫でると体に良いと伝えられています。↓f:id:suzuki_seminar:20171205135333j:plain

 

参集殿で宮司の奥田さんから太郎坊宮の歴史ついて話を伺いました。

昔、太郎坊宮のあたりで土地の所有争いがあったり、大正13年の建築など歴史について聞くことができました。私たちの様々な質問に答えてくださった、優しい方でした。

 

馬の銅像。↓

f:id:suzuki_seminar:20171213122516p:plain

 この当時馬はもらい物として一番よいものとされていました。そのため銅像とされています。絵馬もこのような理由で現在も神社などにおかれています。

 

本殿に至る道中には「夫婦岩」という高さ数10m幅80cmにわたり

真っ二つに開かれた岩があり、本殿に参るにはこの間を通らなくてはなりません。

f:id:suzuki_seminar:20180109092847j:plain

夫婦岩には言い伝えがあり、

「この間を通って参拝すると病苦が除かれ、願いは叶うが、

悪心のあるものが通ると岩に挟まれる」という

子供には「悪戯をしたりすると岩に挟まれる」と教え戒めの場となっています。

 

地質から見る太郎坊

 太郎坊山(赤神山)の見た目は岩肌が露出しており、非常にゴツゴツしています。

f:id:suzuki_seminar:20180109092405j:plain

 

夫婦岩の上部には

「節理」というマグマが冷え固まった際に出来る規則性のある割れが随所に見られます。

f:id:suzuki_seminar:20180109094026p:plain

幅80cmにわたって開かれた夫婦岩の割れは

節理が大きく起因し、自信塔の地殻変動も関係していると考えられます。

夫婦岩は赤神山の中でも標高の高い部分にあるために、

赤神山自体が火山岩によって形成された山だと考えられます。

お火焚大祭

毎年12月の最初の日曜日に開催される恒例行事であり、

厄を払い清らかな新年の訪れを願う太郎坊宮の行事に参加しました。

f:id:suzuki_seminar:20180108192011j:plain

ヒノキによって組まれたの護摩壇に火が付けられ、
あたりを身を清めるとされる煙が包み、修験者が祈りをあげ、参拝者は歓声を上げました。

約40人の修験者は約10万本の護摩木を炎の中に焚き入れ、無病息災などを祈願しました。

 

お火焚大祭には全国から参拝者が詰めかけるだけでなく、

修験者もまた装束に身を包み全国から集まります。

f:id:suzuki_seminar:20180108193706j:plain

 ともに撮影していた愛知県から訪れた方は「毎年来ており、熱気やスケールの大きさに圧倒される。来年も訪れるつもりだ」と話しました。

 

f:id:suzuki_seminar:20180115000846p:plain

護摩木が全て燃やされると、火種が火渡り場の丸太の下入れられました。

参拝者の方々が実際に火渡り場を歩いておられるところです。